フィアンセになりたいanother 

 

 チャイムの音が鳴り響く。

 午後の業務が、もう間もなく始まろうとしていた。

 名残惜しそうに、お互いの唇をそっと離す。

「もう、時間?」

「・・・はい・・・。」

 ブラインドを下ろした薄暗い資料室。

 もう一度、軽く唇を寄せる。

 触れるだけの、甘い、接吻。



 二人の関係は、誰も知らない、真昼の秘め事だった。



「・・・もう、行きます。」

 抱きしめられた身体をそっと離し、ぎこちなく微笑む。

「アーロン・・・」

「・・・ブラスカ・・さん・・・」

 思わず、涙が零れそうになるのを、アーロンはぐっと堪えた。



 今日、ブラスカは、退社し、フリーで活動する決意をアーロンに告げた。

 それは、生活を賭けた決意になる。

 その覚悟に、アーロンは返す言葉は無かった。



 未練を断ち切るように踵を返し、振り迎えることなく資料室を後にした。

 残されたブラスカは、その締まり行く扉を黙って見詰める。



 一人になると、閉じられていたブラインドに手を掛け、太陽の光を室内に招き入れた。

「・・・日陰の身・・・か。」

 誰にでもなく、ポツリと呟く。



 ブラスカとアーロンの道ならぬ関係が始まったのは、もう8年も前のことだった。



 その美貌も然ることながら、若くして『人事課長』というエリートコースを歩み始めたブラスカは、周囲から羨望と憧れの眼差しを一心に浴びていた。もちろん、『営業』として人事に出入りをしていたアーロンも、例に漏れずその一人であった。

 だが、そのブラスカがライバル社の女性と結婚した事で、周囲の視線が変わって行く。

 将来を有望視されていた男は、あっという間にただの虚けと言われ、挙句に反逆者とまで罵られる毎日であった。

 だが、それでも胸を張り出社してくるブラスカの姿に、アーロンは眼を奪われずには居られなかった。

 そして、娘が誕生し、周囲の中傷に拍車が掛かった頃、初めてアーロンとブラスカは言葉を交わすようになる。

 きっかけは、あくまでも『仕事』であった。

 新人事編成と、その報告。

 キラキラとした真っ直ぐな瞳で答えるアーロンの姿に、ブラスカはどこか安らぎにも似た想いを感じた。

 そして、アーロンも、ブラスカの人となりが思ったまま、いや、それ以上に素晴らしくあったことによって、敬愛の念が強まった。

 それからは、社内で擦れ違うだけでも人知れず目線で挨拶を交わし、休日にはブラスカの自宅へ招かれ、娘のユウナにも実兄の如く懐かれることなり、二人の新密度は増して行く。

 だが、二人がどんどん近付いてゆくことに、ブラスカの妻は不安を覚えていたようであった。

そんな折の衝撃。

ブラスカの妻が、実家へ向かう途中、交通事故に遭い、帰らぬ人となった。



 アーロンにとっては、憧れと同情だったのかもしれない。

 ブラスカにとっては、悲しみを癒してくれる『何か』が欲しかっただけかもしれない。

 その夜、二人の関係が始まる。

 お互いの本当の気持ちも告げることのないまま、今日まで続けてきた不毛な関係だった。



 逸る鼓動を抑えながら、アーロンはロッカルームに駆け込んだ。

 もう数分で業務が始まる為か、中にはもう誰もいない。

「・・・急がなきゃ・・・。」

 自分のロッカーを開き、午後の営業用のスーツを身に着けなければならなかった。

 ネクタイに手を掛け、解くと、自分のワイシャツからブラスカの香りが漂ってくるような気がする。

「・・・ブラスカ・・・・・」

 抑え切れない思慕の念に、ワイシャツの袷を掻き抱き、自分の胸を抱きしめる。

 途端



  バタン!!



 音と共に、ロッカールームの扉が乱暴に開かれた。

 突然の訪問者に、アーロンは驚き振り返る。

 そこには、初めて見る男が立っていた。

 年齢的には、おそらくブラスカとあまり変わらないように見える。獣の如く鋭い眼光に、鍛え抜かれた逞しい身体。間違いなく企業戦士であろうその男は、何も言わずにズカズカと室内へ入ってくる。

「・・だ、誰だ・・?」

 顔を歪めるアーロンを見て、男は、不敵な笑みを浮かべ、ポツリと囁いた。

「・・・よう、カワイコちゃん」



 恐ろしい。

 そう直感した。



「おい、こっちじゃないか?!」

「向こうにはいなかったぞ!!」

 通路が急に騒がしくなる。

「もう来やがった・・・」

 男は舌打ちすると、どんどんアーロンに近付き、その襟首をグイッと引き寄せる。

「・・・!」

 その掴んだジャケットを、強張ったアーロンの身体から引き剥がし、素早く自分の身を隠すように頭から被る。

「わりぃな、協力してくれや」

 男は、逆らえない程の強い力で、ワイシャツが肌蹴たままのアーロンを抱き寄せると、有無を言わさず唇を奪った。

「・・・ん・・!・・・」

 あまりに突然の出来事に、アーロンはパニックに陥っていた。男の身体を引き剥がそうともがくが、あっさりと腕を押さえ込まれる。

「入るぞ!!」

 言葉と同時に、激しい音がして扉が開き、1人の社員が押し入って来る。

「おい!ここに・・・!!」

 誰か入ってこなかったか・・・、と続けるつもりだった社員は、ロッカールームの光景に言葉を失った。

 明らかな、情事。

 白いシャツに隠され、誰と誰かは全く判らないが、何度も角度を変え唇を重ねている姿が、背姿とはいえ、官能的である。

 背を向けている方の男が、早く帰れと言わんばかりに掌をヒラヒラさせて、社員を追い出した。

「・・・あ、す、すまん!!」

 社員が慌てて出て行き、扉が閉まるのを耳で確認すると、ようやく男はアーロンの唇を離した。

「・・・行ったか・・?・・あ、わるかっ・・」

 バシッ

 言い終わらない内に、男の左頬にアーロンの平手が飛んで来た。

「・・・なんの、つもりだっ・・!」

 真っ赤に上気した顔で男を睨み付ける。

「そう怒んなって、カワイイ顔が台無しだぜ。」

 男は殴られた頬を手の甲で摩りながら、茶化すように答えた。

「・・・お前は、一体・・・?」



 押し寄せる不安が全身を駆け抜ける。



 賽は投げられた

 これから始まる物語を、まだ誰も知らない














scince 4 Nov.2001












なんだよ、企業戦士って(笑)
これも『冒険の小道』様に投稿させていただいているものです。

大好きなこみちさんへ、敬愛と微力の応援をこめて・・・。

 

 

 

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