孤独の森


「私のものになりなさい」

一瞬、幸鷹は何を言われているのか、はっきりと理解出来なかった。
「・・・・・・・どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だと思うのだが?」

益々、幸鷹の表情は怪訝な色に染まる。




伊予に歳若い国守が来て三年。
本来の任期は後一年は残されていた筈であった。
貴族として、否、幸鷹自身が認められた者として初めての大きな職務は、
『伊予に蔓延る海賊の一掃』。
正論ではあるが、正義感に満ちたその改革は、甘い汁を吸って生きてきた貴族達には納得の行くものでは無かった。幸鷹も、それは百も承知で半ば強引に政策を押し通し、僅か三年で、あの荒れ果てた海をここまで平定したのだ。

その功績は、都で大きく称えられた。
異例の特進辞令を以って、幸鷹の帰京が決定したのも、その結果故である。
だが、無論、一方ではそれを快く思わない者が居て当たり前でもあった。

そんな折だったのだ。
翡翠の元へ、その話が持ちかけられたのは。




瀬戸内の海は、薄らと雲が掛かっている。
もう間もなく陽が傾き始めるであろうが、その前に空が泣き出しそうな気配もあった。
時化ては面倒だと、翡翠は舵を岸に向けるように指示を出した。
「お頭、そういやヘンな文が届いてますぜ」
「・・・・ほぅ・・・一体何処の女性(にょしょう)からかい?」
そう言いながら、部下の手にした封書を受け取る。
「爺さんでしたよ、持ってきたのは」
「じゃあ捨てておいてくれないか」
「お頭・・・・・」
一度突き返された封書を、部下は呆れた表情でもう一度差し出した。翡翠のそういう態度が悪ふざけであることをよく知っているからである。
「外側から触った限りじゃあ、刃物や火薬系はありませんね」
「やれやれ、老人に恋文を貰うとは・・・・」
「だから、お頭・・・・・」
冗談だよ、と言いながら翡翠は再び封書を受け取った。
「中にいるからね、何かあったら教えておくれ」
そう言付けると、翡翠は狭い船内へと入って行った。

決して翡翠の船は大きくは無い。
部下達が集団で過ごす部屋が二つと、倉庫が二つ。
そして、最も奥に翡翠の部屋が作られている。
個人に用意された部屋といっても、人がせいぜい三人寝転がればもう窮屈なものであった。
ゆらゆらと心地よく揺れる床に、申し訳程度に敷かれた布に軽く横になると、翡翠は手に握った封書を開く。
無言で、その内容に眼を通すと、
「・・・・・・・ふん・・・・・・・・・成程ねぇ・・・・」
鼻先で軽く笑いを漏らした。




岸辺に寄せた船は、穏やかに揺れる。
翡翠は、部下達に附いて来ないように促すと、船を降り、どんどんと人気のない雑木林へと向かって行った。
もう、陽は完全に落ち、薄暗闇が周囲を覆う。

ある程度、足を進めると、翡翠はぴた、と歩調を止めた。
ほぅ、と溜息を吐くと、後ろを振り返らないまま、明らかに背後に向かって語りかける。
「気に入らないね、話があるなら出て来給え」

がさ、と茂みが動く。

翡翠が振り返った先には、頭巾で顔を隠した武士風体の男が立っていた。
「翡翠殿とお見受けする」
その男の現れた雑木の向こうには、更に何人かが控えていることも気配で読み取れる。
大仰な、と思いつつ、それだけその背後に動くものが大きいのであろうと察した。
「・・・・・まどろっこしいのは嫌いだね、人を呼び出しておいてその形は頂けない」
口元には笑みを称えていながら、その眼は決して緩んではいなかった。
「まぁ良いよ、所詮何処の何方かは簡単に察しが着いてしまうのでね」
「・・・・・・・・・・・・・」
武士は、言葉に詰まった。
「・・・で?何をさせたいのか、話してくれないと私も返事が出来ないのだがね」

「・・・・・・報酬は出す、決して悪い話じゃない筈だ・・・」
「ほほぅ・・・」
「あんたら海賊にも、目の上の瘤だろう・・・・」
「まどろっこしいのは嫌いだと言った筈だよ、で?」
武士は一瞬、たじろいだ。
翡翠の口元に浮かんでいた笑みさえも消えていたからであった。

「・・・・・・・・国守を、始末して欲しい」

小さく、翡翠の片眉が上がった。

「・・・・海賊を、殺し屋とお間違いではないのかな?」
その声は、先程と変化は無かったが、明らかに何かを含んでいた。
「・・・・・・・・あ、あんたらだって、あの国守のやり方には手を焼いてるんだろ?」
武士は完全に腰が引けている。
「・・・あれだけ仲間を減らされちゃ、あんたもやりにくい筈だ」

減ったのは、仲間ではない。
ただの、海賊宜しく成り下がっただけの者だ。

そう言っても良かったが、わざわざこんな輩に教える義理も無かった。
「・・・・・・それで?」
翡翠は、業と意地悪く次の言葉を求める。
「・・・ど、どれだけ欲しい?」
翡翠の口元に、先程とは異なる笑いが浮かんだ。
左手を軽く上げ、指を三本、立ててみせる。
「・・・さ、三百・・・?」
「冗談を、桁が違うんじゃないのかな?」
「さ、三千!?」
武士の声は裏返っていた。
翡翠はクク、と喉で笑うと、肩に掛かる髪をさらりと払った。
「嫌ならば、他を当たってくれたまえ」
決して見えはしないが、武士の額に脂汗が流れているであろう姿が容易に想像出来る。
「・・・・・・・・・・・・・し、承知した・・・」
「では、前金は?」
「ま、前金!?」
益々その声が裏返る様子に、翡翠は声を立てて笑いたいのを抑えていた。
「当たり前だろう?そんな危険を冒すことに、何の誠意も見せていただけないのではこちらも困るよ」

空は、案の定暗雲立ち込め、ぽつ、ぽつ、と雫を零し始める。
王手は、完全に翡翠の手の中にあった。





「翡翠―――――――っ!」
聴き慣れた声に、翡翠の部下達はその主を止めることも無かった。
桟橋を縫って走る姿は、まだ少年のようで。
否、事実彼はまだ若い。
その功績や、日頃の立ち振る舞い故に、皆彼の齢を忘れているのだ。
息を切らせながら船の際まで駆け寄る姿を、翡翠は甲板から見下ろす。
潮風が、その長い髪をさらりと揺らした。
「噂を聞きました、本当なんですか?お前が貴族の末裔で・・・しかも血筋を遡れば百年以上昔に、朝廷に反逆した大海賊を捕獲した先祖がいるとか・・・」
必死で語る姿を、翡翠は暫し黙って見詰めた。
「国守殿・・・」

全く、何という穢れなき姿か、と思う。

「その子孫のお前が、どうして海賊の頭領なのです!!」
「・・・・・・・・・・・・」
翡翠は、思わず苦笑いした。
「大声で言ってくれる」
国守としての顔と、この好奇心に塗れた少年の顔と、どちらが本物なのか、確かめたい衝動に駆られてしまう。
「私はその噂が恥しくてね―――――幸鷹殿」

久々の衝動を、翡翠は胸中で掻き消した。

「血筋も、官位も、この広い海の前には何の意味もない・・・・・」
それは、自分に言いきかせる為でもあった。
「そう思わないか?」
問い掛ける翡翠の言葉に、
「・・・・そういうものなのですか?」
幸鷹は的外れな答えを出す。

これは、この藤原幸鷹の『少年』の部分か。

「幸鷹殿、時間はあるのかな?」
「?えぇ、本日は職務は終りましたが・・・」
翡翠は思わず笑みを漏らした。
「では、少し話しでもしようじゃないか」





肌寒さを感じて、幸鷹は眼を覚ます。
潮の香りが漂う。
目線が、ゆらゆらと揺れる。
恐らく、船の上なのか。
うつ伏せた状態のまま、暫く、自分のことを思い出すのに時間を要した。
身を起こそうとした瞬間、
「・・・・・・・・・!」
自分の状況に驚愕した。
身体の自由が効かない。
両腕が拘束されている事に気付くのに時間はかからなかった。

「やぁ、お目覚めかな?」

「・・・・・・・・何の真似ですか・・・?」
限られた動きの中、何とかうつ伏せの体制から右肩を突き身体を横にする。
自分の傍らで、目線を揃え楽しそうに寝転がる姿に、幸鷹は出来うる限り冷静な声で問い掛けた。
「さぁ、何の真似だろうね」
「ふざけないで、早くこの縄を解きなさい!!」
声を思わず荒げていた。冷静になどなれる筈が無い。

話しでもしようと誘われ翡翠の後に続いて行った。
桟橋をかなりの距離歩くと、小さな船があった。
私の隠れ家のようなものだ、と言う翡翠に、幸鷹は微かに嬉しさを感じたのだ。
この考えの読めない海賊たる男が、このような秘密の場所に案内してくれるという事は、少なからず自分に信頼を置いてくれたということなのだろう。こういった事を喜ぶべき立場では無いのだが、ついそんな感情が湧き上がる。
が、その船に足を踏み入れた途端、振り返った翡翠が微笑みむと、下腹に走った痛みを最後に幸鷹の記憶は途切れた。

そして、目覚めればこの有様である。

「それは、出来ないよ」
腹を下に、両肘を突いた掌に己の顎を乗せたまま、翡翠はにこやかに答えた。
「・・・翡翠、私を怒らせて楽しいですか?」
「・・・・・・・・・・・そうだね、存外楽しいよ」
「・・・・翡翠っ・・・お前・・・」
言いかけて、言葉が止まった。

「殺すのが、勿体無いくらいだね・・・」
翡翠の左手が、幸鷹の顎に掛かる。

「・・・・・・・・・翡翠・・・?」
その凍った微笑みに、幸鷹の背筋に冷たいものが走った。
「・・・私を、殺す気ですか・・・?」
「さぁて、どうしようか?」
くすくすと微笑むが、その瞳が笑っていないのは幸鷹にも容易に察することができる。
それでも、翡翠がこんな卑怯な真似をして自分を殺すなど、どうにも受け入れ難いと感じていた。
国衙に、単身で乗り込んでくる男が、こんな小細工をするものなのだろうか?
「・・・何故、ですか・・・・?」
「世の中、利害の一致というものがあってね」
その言葉だけで、幸鷹には充分であった。
「・・・・・・・私が、邪魔という訳ですか・・・・・道元ですね・・・・」
「ふふ、賢い人間は好きだよ」
翡翠の言葉は、幸鷹の疑問を確定していた。
「お前は、道元の誘いに乗ったのですか・・・?」

「・・・・・・・・・・・・そうだとしたら・・・?」

「・・・・・・・・・見損ないました」

再び、翡翠はくすくすと微笑んだ。

この眼。
この真っ直ぐで、真正直な眼。

自分には、決して在り得ない真っ直ぐな感情。

「幸鷹殿」

「・・・・・・・・?」

「私のものになりなさい」

一瞬、幸鷹は何を言われているのか、はっきりと理解出来なかった。
「・・・・・・・どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だと思うのだが?」

益々、幸鷹の表情は怪訝な色に染まる。

「君は命を狙われている」
「・・・・えぇ、たった今、お前にね」
気丈なまでに翡翠を睨み返す、薄い硝子越しの眼差し。
「私のものになれば・・・・・助けてあげよう」
「・・・・・・・・翡翠?」
「君は、殺すには惜しい程に、楽しい」
翡翠の表情から、微笑みは消えていた。
「私のものに、なりなさい」
再び、諭すように、語りかける。
「・・・・・・・・・・・意味が、理解出来ません」
「おやおや、そこまで子供だったかな?」
そう呟くと、翡翠は幸鷹の顎に掛けた指に力を入れた。顔を強引に上向きにさせると、己の顔を至近に寄せる。
「・・・・・・っ・・・翡翠・・・っ・・・お前・・・」
必死で逃れようと、首に力を入れ顔を背ける。
「・・・ちゃんと、判っているようだね?」
幸鷹の顔が、微かに朱に染まった。
「伊予に来たばかりの頃は、あんなに初心だったのにねぇ・・・」
背けた左の首筋に、そっと唇を這わせる。

幸鷹の躯が、震えた。

「・・・・・・・・最低だっ・・・・」
「・・・・そう、私は最低の人間だよ」
「・・・・・・・・・・・お前を、少しでも信頼した私が、愚かでした・・・・」
恐らく無意識に、幸鷹の瞳が潤む。
が、決して涙を流さぬよう、下唇を噛み、必死で感情を殺した。

翡翠の眉が、微かに動く。

「・・・・・・・・そう、愚かだったね・・・・国守殿・・・・」
幸鷹に掛けた指を離す。
「・・・・やれやれ、興醒めだよ・・・・幸鷹殿」
翡翠はその場から立ち上がり、
「殺す気も、抱く気も失せた・・・・」
幸鷹を見下ろしながら、懐から一枚の紙切れを取り出し、さらりと手から離す。

ふわ、と空気の抵抗を受けながら、その紙は部屋の隅へと舞い落ちた。

「明日は、京にお帰りだったね・・・・お迎えに来て貰える様にしておこう」
そう呟くと、翡翠は背を向け歩み出す。

「・・・・翡翠っ!!」

その声に、一旦、足を止めた。

「・・・・・・・お前は、私が捕らえます!!」

振り返ること無く、

「・・・・もう、会うこともあるまい・・・・」

翡翠は左手を挙げ、

「・・・・・翡翠っ・・・待ちなさい・・・っ!!」

そのまま去って行った。

「・・・翡翠・・・っ・・・」

幸鷹の瞳に、先程堪えた筈の涙が伝う。

「・・・お前を・・・許さない・・・っ・・・・」




今日この日、伊予の空は晴れやかに澄み渡っていた。
昨日の一件後、幸鷹は何物かの知らせを受けた部下に救出され、事無きを得た。
その部屋に残された書面には、道元縁の者が、何者かへの伊予守暗殺依頼及び、その報奨金についての一筆が成されており、それを機に、道元の失脚が確定したのであった。
だが、当の幸鷹本人を虜にした者については、明らかになることは無かった。
それは、幸鷹自身が記憶に無いと話した故である。

幸鷹は、あの出来事を誰にも話す事は出来なかった。
惨めで、哀しくて、そして何より悔しい。
あのような情けない話を、どうして他人に話せようか。

「国守さま、また来てください」
「ほんとうにありがとうございました!」
数多くの民が、かの国主の帰京を惜しみ、囲んでいる。
「こちらこそありがとう、多くの物を学ばせていただきました」
この瞬間は、自分の行いが間違いで無いと幸鷹を安心させた。
だが、
『・・・・私は、何処か間違えてしまったのだろうか?』
煮え切らない思いが、幸鷹の心に、湖面に揺れる漣の様に波風を立てる。

翡翠は、自分を嫌っていたのだ。

少し、ほんの少し、信頼を置いていた故に、尚更幸鷹の心は乱れた。
その思いは、苛立ちとなって自分の中でざわざわと音を立て始める。

小さく、口の端を噛み締める。




「・・・・・・・・・・・・・・・・私は、何をしているのだろうね」
誰とも無く、翡翠は呟く。
京へと戻る幸鷹の一行を、翡翠は小高い丘から見下ろしていた。
もう会うことも無いと、自分で言っておきながら、どこかに違う思いを抱いていた。
自分の感情の正体を、翡翠は判っているようで、理解していなかった。 否、理解を恐れていたのかもしれない。

「・・・・・・・会うことも、ない・・・・か・・・」




出発間際まで、幸鷹の目線は翡翠を探していた。
が、無論その姿がある筈も無い。

「・・・・・・・・・・必ず、いつか、捕らえてみせます・・・・・」






その言霊に、囚われているのは、果たして。



END

2003.5.5


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